リプロダクティブ・ヘルス
国連人口基金
東京事務所所長
池上清子
1.リプロダクティブ・ヘルスの定義
リプロダクティブ・ヘルス(性や生殖に関する健康)の定義としては、1994年、カイロ国際人口・開発会議で採択された「人間の生殖システム、その機能活動過程のすべての側面において、単に疾病、障害がないというばかりでなく、身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることを示す。」が広く用いられている 1。この定義は、世界保健機関(WHO)による健康の定義に依拠したものである。人口・開発問題を討議した会議でこの概念がとりいれられた経緯を考えると、出産可能年齢のみならず思春期から閉経後も包括する生涯にわたる健康を意味し、子どもを持たないライフスタイルを選択する人々を含めた、すべての個人に保障されるべき健康概念として理解される必要がある。
具体的には、「生殖年齢にあるカップルを対象とする家族計画と母子保健」という狭い領域に限定されるものではなく、「思春期保健」、「望まない妊娠」、「人工妊娠中絶」、「妊産婦死亡」、「HIV/エイズを含む性感染症」、「不妊」、「ジェンダーに基づく暴力」など多岐にわたる。そして、リプロダクティブ・ヘルス・サービスに関しても、家族計画を一義的な目的とする避妊薬(具)提供サービスだけでなく、「性教育の提供」、「性感染症の予防・啓発活動」、「カウンセリングの提供」など、性と生殖に関する包括的な支援やヘルスサービスを提供することが目指される。
21世紀、開発の分野においては「人間の安全保障」が重要な理念として謳われており、「人々の健康の向上」は国際社会における共通目標となってきた。ミレニアム開発目標(MDGs)の中でも、「子供の死亡率削減(第4目標)」、「妊産婦の健康の改善(第5目標)」、「HIV/エイズ、マラリアなどの疾病の蔓延予防(第6目標)」がリプロダクティブ・ヘルスに関連する目標として掲げられている。このうち子供の死亡率は、リプロダクティブ・ヘルス・サービスとして情報の提供を主とする母子保健の向上によって削減できるものであり、妊産婦の健康は妊産婦健診や産科緊急医療の充実によって向上させることができる。また、HIV/エイズは、リプロダクティブ・ヘルスの重要な要素である「安全な性行為を持つこと」によって予防が可能な疾病であり、感染の予防にはコンドームの提供が有効である。そうした中で、2003年段階で、世界で4000万人がHIVに感染し、年間50万人以上の妊産婦が妊娠や出産で死亡するという現状は、リプロダクティブ・ヘルスの向上が優先的に取り組まれる地球規模の共通課題であることを示している 2。一方で、リプロダクティブ・ヘルスの取り組みに関しては、性や生殖という個人的な営みでありながらも地域の文化や宗教的価値観と深く関連する事柄を扱うという複雑さが存在しており、対策においては、それらの「多様性」についての充分な視点と配慮が求められる。
2.歴史的な背景
リプロダクティブ・ヘルスは、1970年代にWHOが保健ニーズを総合的に把握するために用いた概念とも言われる。しかし、この概念は、単なる医療領域で用いられる健康概念にとどまらず、歴史的には、60-70年代に盛んに展開された「国家による強制的な人口コントロール政策」に対抗する「生殖の自己決定」を求めた女性の権利擁護運動を基盤にもつ概念でもある。こうした背景に基づき、リプロダクティブ・ヘルスは性や生殖に関する自己決定権(リプロダクティブ・ライツ)と不可分であり、現在まで、国連文書においても、リプロダクティブ・ヘルスを享受することは基本的な人権として位置づけられてきた。そのため、具体的な対策においても、単にヘルスサービスを提供するだけではない「個人やカップルの性や生殖に関する選択権の保障」が重要な要素として認識されてきた。従って、具体的には、個人やカップルが望む時に望む子どもを望む場所で妊娠・出産できるという、環境を整備することが不可欠ときたのである。
このような歴史を経た上で、1990年代、カトリック、イスラムといった宗教勢力の反対を受けつつも、カイロ会議をはじめとしてリプロダクティブ・ヘルスの保障が人口・開発政策の目的として各国政府の共通理解を得た。これは、人口問題を数と質の管理として国家が行ってきた人口政策を、「個人の権利と健康の保障」というパラダイムへと大きく変換させるものであった。こうした変化を受け、90年代には、具体的な対策においてもリプロダクティブ・ヘルスを保障するために、医学的なアプローチのみならず、人間の性行動に影響を与える社会・文化・経済・政治的な要因を理解する必要性が広く指摘されるようになる。特に、そのなかでも、女性の性や生殖に関する決定を強く規定するジェンダー構造がリプロダクティブ・ヘルスの障害として認識され、女性のエンパワーメントの重要性が国際社会の共通合意となってきた 3。自己決定を保障するために女性が力をつけ、ジェンダー構造を変容していく意義については、1995年に開催された国連女性会議などでも繰り返し確認されている。
3.理論面からの考察
カイロ国際人口・開発会議で採択された行動計画では、リプロダクティブ・ヘルスは人口・開発政策の中で初めて「健康概念」として国連文書の中で公式に定義された。その理論的な意義としては、近代における人権の理解において、国家は生殖の権利の保障だけではなく、個人の健康を享受する権利の保障として、避妊サービスを提供する義務と責任があるという理論的な枠組みを構成できることにある。避妊薬(具)にアクセスできないのは健康を享受する権利の侵害という論理は、近代法による避妊の実施などの生殖のコントロールが宗教規範によって禁じられ、避妊薬(具)へのアクセスが非常に困難な地域において、サービス提供にむけた根拠を与えるものである。また、リプロダクティブ・ヘルスという性や生殖に関する包括的な健康概念を提示することで、それまで別々な領域で実施されていた「家族計画サービスの提供」、「HIV予防やエイズ治療」などの複数のサービスを統一した「保健サービス」として連携させることも可能となる。
もっとも重要な点は、国際社会が、リプロダクティブ・ヘルスという概念を人口問題の主軸にすえたことであろう。人口問題という地球規模の課題に対処するにあたり、リプロダクティブ・ヘルスという概念をその中心的要素として用い、マクロの視点からミクロへ、つまり、個人の選択・権利という視点に大きく転換したことに大きな意義があるといえる。
一方で、個人、カップル、女性の権利を保障するという意味でともに語られてきたリプロダクティブ・ライツを切り離して、リプロダクティブ・ヘルスのみを強調することは、女性のエンパワメントの視点が抜け落ちるおそれがある。そのため「リプロダクティブヘルス/ライツ」という用い方をする場合も多い。
4. 最近の議論・論点
(1) 思春期の若者のリプロダクティブ・ヘルス
近年、多様なリプロダクティブ・ヘルスに関する課題の中でも、特に、思春期の若者の望まない妊娠やHIVを含む性感染症の広がりが地球規模で深刻化しつつある。世界人口の半数を25歳以下の若者が占める中、これらは社会的なインパクトを含め多大な影響をもたらすことが懸念されている。特に、未婚の若者に関しては、多くの地域において性行動が活発化していることが報告される一方で、彼らに対する性に関する情報やサービスは限られたものでしかない。現在まで、こうした思春期の若者のリプロダクティブ・ヘルスに関する脆弱性が世界各地で盛んに指摘されており、すでにピア・エデュケーション(同世代の仲間による情報提供)などの取り組みが積極的に行われている4。しかし一方で、宗教教義として未婚の性を認めていないカトリック、イスラム教圏では、未婚の若者に対するリプロダクティブ・ヘルス・サービスに関しては強い反発がある。特に、教育や情報だけではない実際の避妊薬(具)の提供は、「未婚の性を奨励する」として政策レベルではほとんど行われていない。
(2)リプロダクティブ・ヘルスに関するゆり戻しの動き
リプロダクティブ・ヘルスに反発する動きに関しては、宗教勢力のみならず、アメリカのブッシュ政権による政治的なゆり戻しが指摘されよう。具体的には、アメリカ政府は中絶のサービスを行う機関やNGOに対しては資金援助を行わないというグローバル・ギャグ・ルール(正式名称:Mexico City Policy)を適応し、事実ではないにも関わらず、中国での中絶を理由に、国連人口基金への拠出金を打ち切った5。また、最終的には採択されたものの、2002年のアジア人口会議でカイロ行動計画の再承認を拒否するなど、国際政治の場でもリプロダクティブ・ヘルス推進をゆり戻す活動を行った。こうした政治的な圧力は、理論的な後退のみならず援助資金を含めて実際のフィールドにおいてリプロダクティブ・ヘルス・サービスを必要とする個人やカップルにそのサービスを提供できなくなるという影響をもたらすものである。現在、そうしたアメリカ政府の動きに対抗するようなNGOを中心とする活動も各地で展開されており、今後の成り行きが注目される。
5. 主要援助機関・ドナーの政策スタンス
1994年、カイロ行動計画で承認されたリプロダクティブ・ヘルスの重要性については、その理念が2000年のミレニアム開発目標(MDGs)に引き継がれており、国際社会の共通理解として主要援助機関・ドナーの優先課題となってきた。
まず、二国間援助に関しては、OECD(経済協力開発機構)全体としては保健分野へのODA額が増加している。HIV/エイズを含むリプロダクティブ・ヘルス分野への援助額も増加している6。主要国別では、世界最大のドナーである米国は、国連人口基金や中絶サービスを提供しているとされたNGOに対し資金援助を停止している。しかし、中絶に関するサービス以外のリプロダクティブ・ヘルス分野に関してはグローバルヘルスとして、政府援助機関である米国国際開発庁の重点分野に据えられており、2004年度は3億2500万ドルが割り当てられている7。また、国連人口基金(UNFPA)の最大ドナー国であるオランダはリプロダクティブ・ヘルスを援助の優先課題として、特に避妊薬(具)・情報の提供、思春期保健に関する取り組みを強化している。その他、英国国際開発省(DFID)はリプロダクティブ・ヘルスの推進に関してセクター・ワイド・アプローチ(SWAp)を採用し、他のドナー、国際機関、民間セクターとの連携を強化した援助を進めている。同省はHIV/エイズを含めたリプロダクティブ・ヘルスは保健分野の援助の中では最優先課題となっている。
次に、多国間援助に関して、国連人口基金がリプロダクティブ・ヘルス分野の専門機関として幅広い戦略を構築している。特に、プログラムについてはリプロダクティブ・ヘルス・サービスへのアクセス、人口統計、アドボカシーがその基本的な柱となっている。WHOは、1)安全な母性、2)家族計画、3)性感染症、4)危険な中絶の防止、5)ジェンダーとリプロダクティブ・ライツの分野で研究・プログラムを、実施している8。また、妊産婦死亡率削減に向けた活動の中に人権の視点を取り入れるというライツ・ベースト・アプローチ(Rights-based approach)を実施している。その他、国連エイズ合同計画(UNAIDS)、国連児童基金(UNICEF)といった国連機関がその機関特有のミッションとして、HIV/エイズ、子供の健康を推進するに当たってリプロダクティブ・ヘルスの視点を織りまぜたプロジェクトを実施している。その中でもUNICEFはケアを強化しており、緊急産科ケアを支援している。国際機関としては、欧州連合(EU)がUNFPAと共同でリプロダクティブ・ヘルス・イニシアティブを立ち上げて避妊具の提供及び思春期保健分野で支援している。
6. 日本の諸機関の動向
日本政府によるリプロダクティブ・ヘルス分野の政策は、日米コモンアジェンダの下「保健と人間開発」の中で促進され、ドナー連携として成功をおさめている。また、1994年に人口・エイズ問題への取り組みを内容とする「人口・エイズに関する地球規模問題イニシアティブ(GII)」、2000年からは「沖縄感染症対策イニシアティブ(IDI)」を実施した9。IDIが発表された九州・沖縄サミットでは、エイズ・結核・マラリアをはじめとする感染症の問題が開発の中心課題として採り上げられた。その後、リプロダクティブ・ヘルスの重要な要素であるHIV/AIDSを含む感染症対策が、単に生命への脅威という保健の問題にとどまらず、途上国の経済・社会開発への重大な阻害要因となっているという認識のもと、2002年、世界基金が設立された。現在のところ、人口、リプロダクティブ・ヘルス分野への予算は2002年度の二国間ODA、8千420億8千500万円の約0.2%となっている。
国際協力機構(JICA)の全予算のうち、リプロダクティブ・ヘルス関連予算は同機構によれば、例年1%未満ということである。一方で、JICAは技術協力をはじめとするリプロダクティブ・ヘルス・プログラムを貧困の削減に向けた開発援助として社会開発における重要な要素として位置づけている。その活動の重点分野は、出産ケア体制と妊産婦ケア、家族計画、思春期保健であり、重点地域に関しては近年、東南アジアから中近東、南アジア及びアフリカへとシフトしている。
国際協力銀行は(JBIC)は円借款を通して、重要課題のひとつとしてHIV/エイズや人口問題といった地球規模問題への対応を行っており2002年度の全予算、約21億円の約0.4%が、リプロダクティブ・ヘルス関連に割り当てられている。事業の具体的な内容としては、社会開発における保健医療分野への借款事業に加えて、土木工事従事者を対象としたエイズ教育プロジェクト(カンボジア)や、国連人口基金と共同で実施したインフラ整備と妊産婦の健康の関連についての研究調査(インドネシア)などの実績がある10。
開発に携わる日本のNGOの多くは、直接的・間接的に関わらず、リプロダクティブ・ヘルス分野で援助活動を実施している。その中でも、家族計画国際協力財団(JOICFP)がリプロダクティブ・ヘルス関連の情報提供、教育、リプロダクティブ・ヘルス・サービスへのアクセスの改善を目指す活動を、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域で展開している。緊急人道支援の段階の後、復興・開発の段階では、例えば、アフガニスタンでは、HANDSが保健医療システムの改善に関する活動を、日本医療救援機構(MeRU)が草の根レベルのクリニックを核として地域保健を推進している。また、保健・医療関係のNGOはGII/IDI関連NGOのネットワークを構築して、定期的な情報交換を行っている。
7. 関連リンク
(1)人口/リプロダクティブ・ヘルス全般について
- 国連経済社会局人口部(United Nations, DESA, Population Division)
http://www.un.org/esa/population/unpop.htm
- 人口情報ネットワーク
http://www.un.org/popin/
- 国連人口基金(United Nations Population Fund, UNFPA)
http://www.unfpa.org
- 国連人口基金東京事務所
http://www.unfpa.or.jp
- 5) 国連エイズ合同計画(Joint United Nations Programme on HIV/AID)
http://www.unaids.org
(2)リプロダクティブ・ヘルスについて
(国際NGO)
- 国際家族計画連盟(International Planned Parenthood Foundation IPPF)
http://www.ippf.org
- Population Reference Bureau (PRB)
http://www.prb.org
- Family Health International
http://www.fhi.org
(政府関連機関以外の大学、研究所、NGO, 市民団体など)
- 社団法人 日本家族計画協会(JFPA)
http://www.jfpa.or.jp/
(3)国連人口基金(UNFPA)の日本におけるパートナーNGO
- 財団法人 アジア人口・開発協会(APDA, the Asian Population and Development Association)
apdatyoj@gol.com(電子メールアドレスのみ)
- 神戸アジア都市情報センター (AUICK, Asian Urban Information Center of Kobe)
http://www.auick.org/
- 財団法人 家族計画国際協力財団(JOICFP)
http://www.joicfp.or.jp/
- 特定非営利活動法人 2050(ニセンゴジュウ)
http://www.npo2050.org/
- 特定非営利活動法人 日本医療救援機構(Medical Relief Unit, Japan, MeRU)
http://www.meru.or.jp/
- 特定非営利活動法人 HANDS (Health and Development Services)
http://www.hands.or.jp
- 日本大学人口研究所(NUPRI: Nihon University Population Research Institute)
http://www.eco.nihon-u.ac.jp/contents/research/nuprihp/nupri.htm
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